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助け合いから生まれる調和、その世界のために。

内観力=身体感覚

内観が苦手

感情の言語化が苦手という人は少なくないですが

どうも、その原因の一つが「身体感覚の低下」のようです。

身体感覚という気を感じ取る力の低下が、感情の言語化の難しさに繋がっているようです。

 

丹田を意識して」と言われて、パッと出来る方もいれば「え?どこ?わからない」という方もいる。

この「分からない」は身体感覚の低下でしょう。

もともと日本人は丹田を意識して生きていたのに、失われるのはあっという間だったようです。

 

 

そして、身体感覚を低下させた人は丹田に意識しなくなったため「気」に対して鈍感になってしまう。

その結果、自分の感情という気の流れに鈍感になり

相手の感情という気の流れに鈍感になり

場の雰囲気という気の流れに鈍感になり

状況に合わない言葉を発してしまったり、態度を取っては不調和を引きおこすことが多いのではないでしょうか。

 

 

本来の日本人であれば丹田(自分と相手の気)を意識することは当たり前でしたが、これが出来なくなったことによって

日本人が本来得意とする「思いやる」「協調する」「感じ取る」などが失われ、人間関係に影響しているのではないでしょうか。

 

自分は感覚的です、直感的ですと言う方

確かに私が思う「直感×感覚型」に当てはまり、自分の感覚(ハイヤーセルフの情報なども)」を読み取るのが得意な方は多いけど

相手の気持ちとなると、その感覚がほぼ皆無という方が結構な割合で居ます。

全体に対しての敏感さは持ち合わせていないけど、自分に関係する部分にだけ敏感なのが印象的なんです。

 

ずっと、なんでだろう??どうしてだろう??と思っていたのですが

その理由は「身体感覚」なんだと思います。

この人たちは自分の感覚には敏感ですが、身体(気)の感覚は鈍感なんだと思います。

なので自分以外の事が分からない。

 

この身体感覚を養えるかどうか、は自分の感覚で他者や自分の命を守ったことがあるか、否かにかかってくるんじゃないか、と感じています。

例えば自分や他者、ペットやクライアントが何かの病気に罹った時に、今の自分(その存在)に薬や医療が必要なのか、それとも医療を頼らずに自己治癒力を重視するのか?

を自分の感覚と責任で判断したか、どうか。

自分や相手の命を自分の感覚で守った経験があるか、ないか。

それによって、この身体感覚は確固たるものになるのではないか、と感じています。

 

そんな重たい決断を自分で出来ない

そんな責任ある事出来ない

荷が重すぎる

という理由でその決断自体を他人に任せてしまう人が大半だと思います。

医者が言ったから、一般的には~~だから、という理由で。

 

確かにその決断を自分の感覚でする、という事はとてつもなく重く責任の重さに耐えかねることもあります。

それでも、全責任を自分が背負って、自分の感覚で決めたかどうか。

自分の感覚がYESという方を選び続けられたか

どれだけその決断によって、誹謗中傷が起ころうとも自分の感覚にYESと言い続けられるか。

そして、自分の感覚を信じていれば、あとは結果がついているという実感。

その経験の有無によって身体感覚の有無も決まるんだと思います。

 

身体感覚を取り戻すのは、ただ丹田を意識するだけじゃないように思います。

目の前の命という気の存在があるべき姿を保てるために、自分は何をすべきか?を自分の感覚で判断し、その判断から発生する責任を自分で背負う覚悟を持つ。

この経験の有無が重要なのではないか、と思います。

 

「そんな経験をしなきゃ身体感覚は取り戻せないのか」

「その経験をしないと自分の感情に向きあえないのか」という意見もあるかと思いますが

答えは今の私には分かりません。

 

身体感覚を研ぎ澄ませている方は、この質問に対しての答えをお持ちのようですが

今の私には経験不足ゆえに分かりません。

 

でも、私が知る限り、丹田を意識して自分の感覚で生きている人は「自分の感覚で他者や自分の命を守ったこと」がある方が多いです。

なので、関係ないとは言い切れないと思います。