Lokahi-a-kulike 

助け合いから生まれる調和、その世界のために。

ああそうか、と気づいたこと

私たちは見えない存在やご先祖様のサポートを受けて生きているので

寝る前に、その存在たちに、その日1日で気づいた事や分かったことなどを感謝して

朝起きた時に、その存在たちに、今日の目標(?)学びたい事、などを伝える、ということを繰りかえしています。

 

私自身はそうすると、気づくことや発見する事などが多かったり

学びたい事のヒントを見つけたり、と色々とあるので

毎日、本当に色んな存在のサポートを受けてるんだなぁ、と感じます。

 

ここ最近、私自身はカウンセリングにしても、占星術にしても

「何を意図して」という部分が分からなくなってきてたんですね。

 

魂の意図、本質・・・を他人が伝えるのとも違うし、そこは気づいてもらう必要があって

でも、真理や本質、絶対的な智慧のようなもの・・・も一部ではあるけど??

じゃぁ私は何をしてるんだ??と。

聞かれたら、たいてい答えられるけど、でも逆に「私はこれが出来ます!!」と言い切れないっていうか、なんていうか。

分かってない訳じゃないけど、なんていうか一言で言えなくなってきたっていう。

 

そこで見えない存在の方々に「そこのヒントをください」ってお願いしておいたんです。

 

Clubhouseデビューして、気になったら聞いてるんですが

昨日は「自己価値をどうやって見つけたらいいか分からない」という話をしていて

「そうなんだ!」と思ったり

別の話を聞いてて「何を聞いても答えられる、引き出しの多さがスゴイ」と言ってるのを聞いて

「こういう感じを引き出しが多いって言うんだ」って思ったり。

 

そして、今朝、起きてから用事をしていて気づいたのが

「あ、私は自分が知ってる情報の中から、その人に必要な事を伝えたいのか」

「その人がその情報を最終的にどうするか?はその人によるから、そこを私は決めたくなかったんだ」と。

 

なんか、そうしたら妙に納得したというか、なんていうか。

「これを伝えたい」とか「これだけを伝える」

んじゃなくて、その人に必要な情報を伝えたかった

それだけなのか、と。

 

だから必要ならばホロスコープを読んだり、カードを読んだり

宇宙の真理だの法則を伝えたり

過去に観た映画やドラマの内容を伝えたりしてるだけ

ただ、その人にとって必要な情報を私が言葉にして伝えているだけ、それだけなんだ。

だから定義づけすることが難しかったんだな、と。

ってことに気づいたら、妙に納得した感じでした。

 

なので、私自身は伝えた内容がどうだったてことよりも

その人の深いところに届いたっていう手ごたえや実感があると達成感があるんです。

その理由は「これを伝えたい」「この情報だけ」という私主導じゃなくて

クライアントさんが求める情報を伝えられたことのへ満足感だったんだと思います。

 

自分史を書いていて何度も、何度も出てくる「相手の言いなりになりたくない」「相手主導になりたくない」という言葉

それは私自身がそういう経験をしたくない、だけではなく

同じ思いを、誰にもさせたくなかったんだと気づきました。

 

確かにカウンセリングの目的として「~~を伝えます」の方がお互いに意図が明確なので良いのですし

表面的なその人にとって、

でも、その人の魂がその意図を求めているか?は分からない。

だからこそ、その人の魂が求める情報を伝えられたら、それでOKなんですよね、本来は。

 

その人にとって必要な情報を伝える、それ以上でも以下でもない。

だから、その日、その時間、クライアントさんによって

話している内容は違うんだな、と。

 

ずっと、カウンセリングの内容に一貫性がないように感じていて

必ずしも、自分の中で決めてるカウンセリングレベルを超えるわけではなく

クライアントさんは喜んでくれてたとしても

私は「うーん」となることもありました。

 

でも、それでよかったんだな、と。

自分がどうか、じゃなくて

クライアントさんが求める情報を伝えられたら、クライアントさんの深いところに届いたら、それでOKなんだ、と。

 

自分のダメだと思っていたところで

改善しなきゃ、どうにかしなきゃと思っていたところですが(仕事ではああだの、こうだの言ってますが・・・)

そこにこそ光を当てる必要があったんだなって事に気づきました。

 

気づきってなんですか?

どうやったら気づけるか?と聞かれるのですが

気づきは結果であって、気づくまでの過程が必要なんですね。

何もないところから、突然気づく可能性は低いと思います。

大切なのは気づくために、気づきたいから、そのために行動すること。

気になったものがあれば、観てみたり

気になったことがあれば、言ってみたり、やってみたりする。

そういう積み重ねがあって、その積み重ねの結果、リミットを越えると

全ての点が線となり、それが気づきとなり、体感があるんだと思います。