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助け合いから生まれる調和、その世界のために。

当たり前の感情、想いほど取りこぼされる

先日、あることが切っ掛けで「私の努力は奪われて乱用される」という事を実感しました。

私にとって、この事は何十年と苦しめられてきた事なので、この感情を引き出す出来事が起こる度にイラッとしていたのですが

なぜか今回はあまり実感として湧かず

「普通だったら激怒する案件なのになぁ」と自分のスルー気味の反応にちょっとビックリしていました。

が、その日を境に、何度か「私の努力は奪われて乱用される」と実感することが続き

「あれ?」と思っていたんですね。

 

そして、改めて向き合ってみると「もう二度と私の大切なものを奪われたくない」「大切な物と一緒にいるのは私」そんな思いが出てきました。

でも「もう、どうする事も出来ないし」と思っていることでもあったため

諦めモードゆえの無関心だったようです。

 

私にとって「私の努力は奪われ乱用される」という思い込みは昔からずっと意識していたものでした。

そして、人生の悩みの大半がこれでした。

頑張って努力して、頑張って結果に近づくと誰かによってその努力も結果も奪われてしまう。

そしてその奪った本人が私の努力を「まるで自分のもののように」乱用する。

そして、それをただ見てるしかなかった。

奪われ乱用され「てる」時に初めて「何が起きたか分かる」ことばかりだったので

「どうにもできない、受け入れるしかない」と自分をなだめるしかない、という事ばかり。

そして、私はいつも諦めるしかない、と諦めていた。

そして、流れに身を任せて物事が勝手に進んでいく、形を変えていくのも見ているしかできなかった。

 

今世はここをどうしても終わらせたくて生まれてきたんだろう、とも思っていました。

何十年と悩まされた「私の努力は奪われて乱用される」を終わらせて次の新しい経験をしてみたり。

それってなんだろう?と。

 

ここで大切なのは、魂が終らせたいこと、越えたい事って「自分個人」のための喜びではなく

大袈裟に言えば地球全体、宇宙全体、小さく言えば身近な人たち、日本人に働きかける事柄。

ってなると「私の努力は奪われて乱用される」となると私個人の事なので、それではまだまだ足りない。

 

そうやって言語化していったら「愛は悪を凌駕する」という言葉がふ、と出てきました。

悪が勝つ世の中には本当にうんざりしていて

悪に愛が押しのけられるような世界を終らせたくて。

だからと言って、悪は淘汰され、悪は消えて愛だけが残るというものではなく

悪を愛が包括した上で新しい愛になる、という意味。

 

ってなると、凌駕じゃないような??

ってことで、まだ言語化は進むようですが

ただ、今まで本当にここが言語化出来ずに長かったというか、言葉にならずに何年経ったかって感じですが

ようやく、ようやく方向性が定まってきたようです。(長かった・・・)

 

自分が本当にしたい事、やりたいことほど、取りこぼされる傾向があり

また、この取りこぼしにしっかり向き合わないと、魂の願いの実現を邪魔する思い込みは見つからず

だからと言って、取りこぼす時期も、他の感情に向き合う時期も必要。

そうやっていろんな感情に向きあいながら、少しずつ魂の願いや願いの実現を邪魔する思い込みを構成するパーツを見つけつつ

時間をかけて一つの言葉にしていくんだな、ということを改めて感じました。

 

感情の感じ切りって言うのは本当に深いです。

シンプル故に深く、シンプル故に濃い、そんな感覚です。