イザナミの苦しみ ≠ 自分
昨日、集合無意識の情報を受け取ってしまい、精神的にシンドイ人もいる、という事を書いたんですが
その中でも、女性が関連するのが「イザナミの苦しみ」だと思っています。
そして、イザナミの苦しみが女性性の集合無意識の苦しみとなり
今の地球で生きている女性たち一人一人がイザナミの苦しみの一部を担い、
特にツインソウルや魂の片割れに出会った(出会う可能性のある女性)はこの苦しみの昇華をパートナーとの間で行うんだと思います。
なので、別の言い方をすると、自分が何度向き合っても終わらない、スッキリしない事柄とか
強烈に感情が動き、強烈な怒りや憎しみが湧く事柄は
もしかしたら「自分自身に属さず、集合無意識のイザナミの苦しみ」なのかもしれない、と。
私自身、もう大分長い間「疑い深い自分」に翻弄されてきました。
この疑い深さは常に、どんな時も発動されるわけではなく
深いご縁がある彼との事限定で、疑い深い自分が発動します。
彼との事限定で疑い深いという言葉では足りないほど(精神異常者かと思うほどの疑い深さ)疑いまくります。
その理由、原因を言語化していくのですが、一時的に「なるほど」と思うんですが
なんていうかスッキリ!サッパリ!には至らず。
そこで、ダークムーンリリスから読み取れるのでは?と思って読み解いているんですが、これまたスッキリとせず。
(今から読み方を変えるので、何かしら掴めるかもです)
そして、ふとイザナミの苦しみに関係しているんじゃないか?と思って、改めてイザナミとイザナギの話を読んでみたところ
「あれほど覗かないでと言ったのに、あなたは私に恥をかかせましたね」という言葉に「あ!」ってなったんです。
約束を守らなかった事に怒るのではなく、醜い姿を見られ「恥をかかされた」事に怒ってるってことに、私は共感したんですね。
私にとって恥とは「ありのままの自分をさらけ出した時に、相手に否定されること」
そして、今世の私はありのままの自分が露呈しそうになると「辱めを受けそうだ」と思っては
その場から「逃げる」ことばかりしていたんです。
小さいころからもずっと、恥をかきそう(ありのままの自分をさらけ出す状況)な状況を迎えると徹底して逃げまくっていたんです。
なので自分から話しかけない、積極的に何か行動しない
学校生活でのイベント、行事は「どう逃げるか」との戦いばかりでした。
が、彼との関係の中で恥をかかされることばかりだったんですね。
なぜか恥を超え、彼の前で醜態をさらし、しかもドン引かれる、そんな経験も何度もあります。
そして、ある程度彼の前で「恥をかいた」あとに出てきたのは
彼と出会った当初に感じた「この人とのご縁、やるべきこと」を「信じる」という事にも強烈な抵抗が出たんです。
そもそも「目の前で起こることは」その感じたことを全否定するようなことばかりだったので、何を根拠に信じるんだ!って感じでした。(宇宙の法則とか無視しています)
でも、いろんな出来事から「自分の感覚を信じればいい」というメッセージもくる。
でも、信じることが強烈なほどに怖い。
彼以外の事は、目の前で起きたことより、自分の感覚を優先できるのに
彼に関する事だと自分のモードが「疑いモード」に切り替わる
そして自分が感じていることの全てを疑って疑って、疑いまくるんです。
それが不思議で、不思議でならなかったんですが
このイザナミの「恥をかかされた」という言葉でやっと、全体像が見えてきたんです。
私にとって「ありのままの自分をさらす=恥をかく可能性」になるわけで
そして「信じる」という行為自体が「ありのままの自分」なので
私にとって、信じるという事は、恥をかく可能性も意味します。
自分の中で「信じたら恥をかかされるぞ」って思っては「信じていいのか、信じないほうがいいのか?」と疑いまくったんだな、と。
で、ここで疑問として挙がるのが
「自分が感じていることは、自分由来なのか、イザナミ由来なのかの見分け方」
だと思います。
ハッキリと「ここでこう見分ければいいんです」というのは分からないのですが
ただ、私自身は「自分のものじゃない、イザナミのものかも」と思ったら急に楽になったって実感はあります。
また、疑い深さが発動されるのが「特定の男性」のみ、という事でしょうか。
自分では扱い方が分からない「何か」はもしかしたらイザナミ由来かもしれません。
一つの可能性としてお伝えします。